長崎県立盲学校の校章です。 長崎県立盲学校 アクセス 盲学校の住所、地図はこちらからどうぞ
 お問い合わせはこちらからどうぞ
 
   盲学校を 知りたい方 見えにくさでお困りの方  入学希望の方  在校生・ 保護者の方
 学校運営
 各部・寄宿舎
 学校沿革
 特色ある教育活動
 PTA活動
 教育相談
長崎県立盲学校の歴史
<明治時代>

 本校は、安中半三郎氏を中心とする民間団体「長崎慈善会」によって、明治31(1898)年に「長崎盲唖院」として創立されました。同年9月12日開院、その安中氏に盲唖院設立を相談した、自らも視覚障害者である野村惣四郎氏の居宅(市内興善町)の一部を仮校舎として、授業が開始されました(以後この日が開校記念日)。
 開院時の生徒数は13名、京都以西では2番目に設置された盲聾教育機関となります。
 この年の11月28日には、電話発明者として有名なA・G・ベル博士が来院し、教師及び生徒に対して手話演説を行っています。
 九州初の盲聾教育機関であったために、開院以来九州全域及び愛媛・広島からの生徒の入校もあり生徒数は年々増え続けました。そのため、校舎が手狭になり2度の移転を余儀なくされ、最終的には明治41(1908)年市内桜馬場町に新校舎が落成し落ち着くこととなりました。
 校名も明治33(1900)年には「私立長崎盲唖学校」と改称。その後九州各地に相次いで開設された盲唖学校の中核的存在として、明治45(1912)年には第1回西部盲唖教育協議会を開催するなど、九州地区の盲・聾教育の研究、実践に大きな役割を果たしています。
<大正時代>

 大正8(1919)年には「長崎盲唖学校」と改称。大正12(1923)年「盲唖学校及聾学校令」が公布されたのに伴い、翌年7月12日には盲・聾教育の組織分離がなされ、「長崎盲学校」及び「長崎聾唖学校」の両校が開設されました。
 また、この法令には普通教育と職業教育の分離化とその指導充実が明確にうたわれ、それを受けて本校でも指導内容の充実が図られるようになり、修業年限も初等部6年、中等部鍼按科及び音楽科4年、別科按摩専修科2年となりました。
 なお、西部盲唖教育協議会を引き継いだ九州盲唖教育研究会の第1回も大正15(1926)年に本校で開催されています。    
 <昭和時代(戦前)>

  「盲学校及聾学校令」及び「公立私立盲学校及聾学校規定」により、国内各地の私立学校は次第に県立学校に移管されていきましたが、本校も昭和4(1929)年4月1日に県に移管されて、現在の校名である「長崎県立盲学校」となりました。
 昭和9(1934)年、浦上天主堂に近接する上野町(後の橋口町)に、当時の盲学校では最新の設備を有する鉄筋コンクリート造3階建ての新校舎が完成し移転しました。
 その浦上校舎に、昭和12(1937)年5月29日ヘレン・ケラー女史が来校、記念として月桂樹を手植えされました(残念ながら、この月桂樹は原爆投下により焼失してしまい、今は玄関横に女史ゆかりの校樹として若木が植えられています)。
 ヘレン・ケラー女史が来校されたこの年、日中戦争が勃発。国内が戦時体制につつまれていく中、本校学友会も昭和17(1942)年に報国団と改組、生徒は勤労奉仕や慰問治療等に動員されました。
 さらに、戦争末期の昭和20(1945)年2月、校舎を三菱長崎造船所に貸与し、学校は長崎市近郊の長与村(現、長与町)に疎開移転しました。
 8月9日原爆投下、夏休みで市内に帰省していた生徒4名と長崎出張中であった多比良校長が被爆して亡くなり、浦上校舎も直撃を受け壊滅的な被害を蒙りました。
<昭和時代(戦後)>

 昭和23(1948)年4月、「中学校の就学義務並びに盲学校及び聾学校の就学義務及び設置義務に関する政令」が公布され、永年の要望であった義務制が実現。これにより、修業年限は小学部6年、中学部3年、高等部本科3年、専攻科2年、別科2年となりました。
 この年の5月、長与村の仮校舎も手狭になったので、大村市に移転し再び盲・聾学校併設となりました。この年はまた両校の創立50周年にあたっていたため、11月に合同で式典を実施しています。
 昭和24(1949)年8月、原爆で損壊した旧浦上校舎跡に寄宿舎並びに外来治療室が完成しました。そこで、聾学校と再び分離し、この施設を仮校舎として授業が再開されました。
 翌年3月には、木造二階建ての復旧校舎も落成し、5月には落成祝賀会が催され、この祝賀会によせて「長崎の鐘」で有名な長崎医科大学の永井隆博士より、お祝いの色紙が心温まる言葉とともに送られています。また、博士のお見舞いに生徒が訪問した返礼として、桜の苗木50本も寄贈され、校庭や運動場に植樹されました(この桜木は校舎移転時に移植できず、現在は跡地で毎春花を咲かせています)。
 11月、大阪府立盲学校から牧野定治氏が校長として着任し、以後17年間にわたり本校教育の振興に力を尽くしました。この間、厚生省所管の児童生徒収容施設である啓明寮の設置、就学奨励費の制度化、図書館開設と点訳活動による教材の充実化等が図られ、次第に教育条件が整備されていきました。
 在籍する児童生徒の数も増加し、昭和35(1960)年には227名と最高に達し、盲人野球、相撲、柔道、盲人バレーボール、器械体操の体育系活動及び演劇、弁論、マンドリン、点字、珠算、邦楽、吹奏楽などの文化系活動の部活動も盛んで各種大会で優秀な成績を残しています。
 また、昭和30年代半ば頃から生徒会主催で老人ホームに出かけての治療奉仕が始まり現在に引き継がれています。
 昭和44(1969)年、小学部及び中学部に各1学級ずつ重複学級が設置され、視覚障害と併せて他の障害がある児童生徒にも学習の場が保障されるようになりました。その後、昭和57(1982)年には高等部の重複学級設置も正式に認められました。
 また、昭和48(1973)年、文部省による盲学校の学科改編を受けて、高等部本科に普通科、保健理療科を設置し、5年課程の理療科及び2年課程の別科の生徒募集を停止しました。
 昭和50(1975)年、児童生徒数の増加と復旧浦上校舎の老朽化にともない、長崎市に隣接する時津町に校舎・寄宿舎が新築され移転することとなりました。また、この年修業年限1年の幼稚部も開設されました(昭和57年度から3年に延長)。
 昭和53(1978)年、盲教育100周年記念として全日本盲学校教育研究大会が長崎で開催され、本校は主管校として大会の準備・運営に尽力しました。
 なお、啓明寮が廃止されたのに伴い、昭和63(1988)年からは自宅通学生を対象にスクールバスも運行されるようになりました。 
<平成時代>

 平成2(1990)年4月、資質向上を主たる目的として「あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師等に関する法律の一部を改正する法律」が施行されました。これを受けて、本校でも学科改編を行い、平成6(1994)年高等部専攻科に保健理療科を設置し本科保健理療科の募集を停止しました。
 平成4(1992)年2月には、文部省・県教育委員会指定による「心身障害児適性就学推進研究校」として、研究発表会を開催。
 また、平成8(1996)年2月には県教育委員会指定による「養護・訓練」の研究発表会を開催。児童生徒数の減少化及び児童生徒個々の実態の多様化に対応すべく、本校の啓発活動を推進するとともに個に応じた指導力の向上に努めています。
 平成10(1998)年11月、創立100周年記念式典を挙行。記念誌発行、記念碑建立を行うとともに、生徒会主催の記念文化祭、上海市盲童学校音楽団を迎えての記念コンサートも開催。11月下旬には、記念事業の一環として高等部で初めての中国修学旅行を実施、旅行の途中に上海市盲童学校を訪問して交流を,深めました。
 平成18年(2006)年4月、盲学校の小学部棟を改築して、長崎市内の南部にある県立鶴南養護学校小学部の分教室が開設されました。これまでは、長崎市北部やその北にある時津町、長与町、西海市に住んでいる鶴南養護学校の小学部児童はスクールバスに乗り、長崎市内を縦断して本校に通うのに2時間近くかかっていましたが、分教室開設後は通学がずいぶん便利になりました。
 平成23(2011)年2月16日、長崎如己(にょこ)の会から「永井千本桜」2世の苗木を4本いただき、正門近くに植樹しました。 
 平成23(2011)年8月18~19日、全国盲学校野球(グランドソフトボール)大会を本校が主管校となり、時津町のとぎつ海と緑の運動公園で開催されました。本校は、暑い中健闘しましたが、予選で敗退しました。
 平成23(2011)年12月14日、盲学校愛唱歌『愛のうた』発表会が開催されました。作曲者でもある小林研一郎氏が来校され、直接指導してもらいました。
 平成24(2012)年4月10日、鶴南特別支援学校時津分教室中学部が開設されました。
 平成26(2014)年3月28日、理療科棟改修工事が完了し、高等部棟へ名称変更しました。
 平成27(2015)年4月7日、鶴南特別支援学校時津分校が開校、高等部が開設されました。
 平成28(2016)年3月11日、厨房増築内部改修工事が完了しました。 
  キャラクタ『ルーメン』が手を振っているイラストです。   
このwebページ内コンテンツの著作権は、長崎県立盲学校に帰属します。
作成・発行  長崎県立盲学校