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平成二十六年度 五月二十日 本日5月20日は、我らが長崎県立西彼杵高校の68回目の開校記念日です。本校の歴史については、みなさん、特に3年生、2年生は、今までに折に触れ聞いたりしていることと思いますが、また改めて今日の開校記念日に則して振り返ってみたいと思います。 私もこの度本校に赴任したばかりですので、少し調べてみました。本校は、昭和20年12月の県議会で、長崎県における最後の中学校・・・旧制中学校として設置が認められたといいます。そして、年が明け、昭和21年3月に、文部省から正式に「長崎県立西彼杵中学校」としての設立が認可されました。旧制中学校というのは、今でいう高校と大学の教養課程、すなわち大学の1,2年生くらいを言います。まさに、当時の最高学府として、大学の次に、最も高い学問を学ぶことのできる学校としてこの西彼杵半島の中央部の瀬戸に設立されたのです。 しかし、実は、この決定が下される前の、昭和15年12月の県議会で、すでにこの西彼杵半島における中学校設立の請願 (願い) は提出されていて一度は、設置が認められていたといいます。しかし、昭和15年といえば、まさに日中戦争が混迷を極めだした頃です。ヨーロッパでは、ナチスドイツがオランダ、ベルギー、フランスのパリに進行し、イタリアもムッソリーニ政権がイギリス、フランスと戦争をはじめた頃です。日本とドイツとイタリアのファシズム政権が、三国軍事同盟を結んで世界を相手に戦争をはじめた、まさにその年なのです。すなわち第二次世界大戦の始まりです。日本も3年前から中国と戦争をはじめています。まさに世界が泥沼の闘いに突入していこうとしていたときです。ですから、おそらく新しい学校を創ろうとする余裕はだんだんとなくなっていったのでしょう。そしてこの長い戦争は、昭和20年の広島、長崎への原子爆弾が投下され、8月15日をもって終結することになったのです。しかしその廃墟と混乱の中で、それから4ヶ月後には、すでに、再びこの西彼杵中学校の設置認可が県議会で認められたのです。如何に、当時の地元の方々の、この地に、最高学府を作ってもらいたいという願いがつよかったかが忍ばれます。 記録には、次のようにありました。「この交通の不便な西彼杵半島に学校がないために、優秀な人材が勉強のできないまま埋もれていってしまう。お金がある家は、長崎、佐世保に出ることもできるだろうが、大半はそれもかなわない。よってこの西彼杵郡に中学校を設置していただきたい。土地や資材その他応分の地元負担はあえて辞するものではない。」と。戦後の日々の混乱の中で、まともな生活もままならないぎりぎりの生活の中で、この半島の人々は、これからの平和で文化的な社会の建設のためには、どうしても学問が必要であることを何度も確認しあったということです。そして、この萌多ヶ丘の地が無償で提供され、地元の町民や青年団、学校職員、生徒、育友会の皆さんが力を合わせて整地をして、この地に学校が誕生したということです。この西彼杵高校の歴史を振り返るとき、この地元の人々の「西彼杵郡に学校を!」という願いを、決して忘れてはならないのだろうと思います。昭和23年、学制が変更され、旧制中学は高等学校となりました。西彼杵高校の始まりです。 それから実に68年の歳月が流れています。途中には、本校だけでなく、神浦や大島に分校や定時制ができ、また家政科ができたりという変遷を繰り返しながら、じつに昨年までに、11,336人の卒業生を輩出する伝統校となっているのです。卒業生は、地元だけでなく、日本全国、遠く海外までにわたって活躍されています。このような、伝統と実績のある西彼杵高校で私たちは学んでいるのだということを、まずは誇りに心にとどめていてほしいと思うのです。 さて、いまなぜ長々と本校の歴史を振り返ったかというと、ここに私は、「学ぶこと」の最大の意義が集約されていると思うからです。人はなぜ学ぶのか、なぜ学ばなければならないのか。それは、どのような時代が来ようとも、人は社会的な存在であるからだと言えるでしょう。人は一人では生きてはいけない存在です。そうである以上、よりよき社会を建設していかなければならない。自分たちの手で創りあげていかなければならないのです。社会といえば、何か大きな、自分とは直接関係のないもののように感じるかも知れませんがそうではない。自分の身の回りの、教室だって、学校だって、地域だってみんな社会です。そしてもうすぐ、18歳から選挙権がくるようになるでしょう。そのような時代の中で、如何に自分は生きていくのか。どのような人生を歩んでいくべきなのか。どのような歴史があり、どのような文化があり、その中で自分はどのような生き方をしていくべきなのか。それを学ぶのが学問なのだと思います。もちろんこれらの答えが簡単に出てくるものではありません。しかし、だからこそ学ぶことが必要なのです。かつての戦争は、相手に対して力と力で対決していました。そしてその結果は、国内外を問わず、多くの人々のはかりしれない不幸を生み出してきました。もっと昔の封建社会は、富める者と貧乏な者を生み出してきました。人の命を粗末に扱うような時代もありました。いまでもある国では、多くの少女が誘拐されたりしています。確かな歴史を踏まえ、哲学や科学を確かに学び、本当の意味での、人間としての自由を獲得していくために、人は学ばなければならない。人々が学ぶことが許されない社会は、何度でも暗黒の時代に落ちていくことになるでしょう。 世界には、今でも十分に、小学校にすら行けない国がたくさんあります。やっと遠い村に小学校ができて、一日に5時間も6時間も歩いて学校にいく子どもたちを映した映画を観たことがあります。ほんのわずか1時間か2時間学校で勉強して、また5時間も6時間も歩いて家に帰る。そんな国や地域が、世界にはまだまだたくさんあります。 しかし、その子どもたちは、日本の子どもたちよりも、はるかにきらきらした輝いた目をしている。たった1時間かそこらしか学べないのに、勉強することが楽しくて仕方がないというように、明るく、真剣なまなざしで授業を受けている。知らないことをわかっていくことは、本当はとても楽しいことなのです。できないことをできるようになっていくのは、実は、最高の喜びなのです。なぜなら、その度に、自分の世界の窓が、一つずつ開かれて明るくなっていくのですから。自分の世界が広がるということは、実はものすごく素晴らしい喜びなのです。孤独の心に光が差していく時に、生きるための希望を見いだすことができるのです。そのことを、日本の子どもたちは忘れてしまっているのかもしれません。 私は、この西彼杵高校の校歌が本当に素晴らしいと思っています。長崎県だけでなく、全国に誇れる校歌だと思います。そのうちぜひ野球部が甲子園に行って、この歌を全国に向けて歌ってくれる日が来てほしいと願っています。わたしもこれまでたくさんの高校の校歌を聴いたり、歌ったりしてきました。その中でも、この西彼杵高校の校歌は最高です! 「いざもろともに歩を揃へ/文化の華の咲き香ふ/明日の日本を打ち樹てむ」という、まさに、この西彼杵高校の「建学の精神」を見事に歌い上げたこの校歌は、学問の真髄を織り込んだ本当に価値のあるものだと思います。どうかみなさん、この校歌を誇りに、ここで学べることを誇りに学び続けてほしいと思います。 今ここに集まった生徒のみんなと、ここに集まった先生方と、「いざもろともに」(一緒に)、「力」ではなく「心」が、一人一人の「知性」と「感性」が創りあげる「文化の華」が咲き香う、本当に正しい、あるべき「明日の日本」を、「世界」を、みんなの力で打ち樹て、創りあげて行きましょう! 毎日、この美しい角力灘を見ながら、学び続ければ、必ずこの海の水平線の向こうに、自分の「志」の実現する世界が生まれてくるはずです。 開校記念日に際して、もういちど自分の学校を振り返り、自分自身の志を問い直してもらいたいと思います。みんなで力を合わせて、先人たちの思いを胸に、自分の人生における、かけがえのない愛すべき母校にしていきたいものです。 |